言葉はばくはつする
あぁ、この詩はこうよむのか・・・と思った。
人間のさとりの境地をうたったこの詩をまえにすると、鏡の前にたったようで自分のできのわるさがうかびあがる。もっとも、賢治自身も「こういうものにわたしはなりたい」といっているし、現実の人物像は理想像からとおかったといういじわるな見方もある。
だけど、あたたかみのある声をとおしてこの詩を聞いたとき、詩にたましいが通い、羨望や皮肉やあきらめなど細かな計算をふきとばしてしまう。そこに人間がいきているのだ。人間がいきづいているのだ。ああ、そうだった、これをわすれていたと、おきざりしにていた宝物をみつけたようで泣けてくる。
リズムがすばらしい。「ちいさなかやぶきのこやにいて」で早くなり、「にしにつかれたははあれば、いっていねのたばをおい」でゆっくりに。詩は歌なのだ。
これが声の力だ。詩は声を出してよむものなんだ。