夕焼け色の記憶

翻訳した作品を中心に、オーストラリアから見て思ったことなどをつづっていきたいと思います。シドニー在住

星の王子さま ブログで読める新訳 XXI-1


キツネがあらわれたのは、ちょうどそのときだった。
「こんにちは」キツネがいった。
「こんにちは」ちいさなおうじさまは、ていねいにいった。でもふりかえっても、なにもみえなかった。
「ぼくは、ここだよ」そのこえはいった。
「りんごのきのしたさ」
「あなたは、どなたですか?とってもかわいいですね」
「ぼくは、キツネさ」キツネがいった。
「ここにきていっしょにあそびませんか」おうじさまはよびかけた。
「ぼくはさびしいんです」
「ぼくは、きみとはあそべないよ」キツネはいった。
「ぼくは、きみのなかまではないもの」
「あぁ!それは、ごめんなさい」


おうじさまは、そういった。でも、しばらくかんがえてから、つけくわえた。
「あの、『なかま』ってどういういみですか?」
「きみは、ここのひとじゃないね」キツネがいった。「なにをさがしているの?」
「ぼくがさがしているのは、ひとです。あの、『なかま』ってどういういみですか」
「ひとだって。あいつらは、てっぽうをもって、かりをするんだ。ほんとにいやになる。それから、にわとりをかっているんだ。それしか、とりえがないときてるんだから。きみも、にわとりをさがしているの?」
「ちがいます!」とおうじさまがいった。
「ともだちをさがしているんです。『なかま』ってどういういみですか」
「それがどんなにだいじかってことに、だれもきづいてないんだ」キツネがいった。「きずなをつくるってことさ」
「きずなをつくるですって」
「たとえばだね、ぼくにとって、きみは、なんじゅうまんもいる、ほかのちいさなおとこのこと、なんのかわりもない。だから、きみのことなんて、きにかけない。そして、きみのほうでも、ぼくはひつようない。きみにとって、ぼくは、やっぱりなんじゅうまんもいる、ほかのキツネとおなじだからね。
 でも、もし、ぼくを、きみのなかまにしてくれたら、おたがいがひつようになってくる。ぼくにとって、きみは、せかいでいちばん、とくべつなそんざいになるんだ。きみにとっても、ぼくはせかいでいちばん、とくべつなそんざいになるんだ・・・」
「なんとなく、わかりかけてきた」おうじさまはいった。「きっと、あのはなは、ぼくをなかまにしたんだ」

「そうかもね、ここちきゅうでは、いろんなことがおこるから」
「あぁ、でも、それは、ちきゅうのはなしじゃないんだ!」おうじさまはいった。
キツネは、もっとしりたいってかおをした。
「ほかのほしなの?」
「そう」
「そのほしには、りょうしはいるのかい?」
「いいえ」
「それはいい!にわとりはいるの?」
「いいえ」
「やっぱり、うまいはなしは、ないってわけだ」キツネはためいきをついた。


でも、さっきいいかけたことに、もどってはなしはじめた。
「ぼくのせいかつは、とってもたいくつなんだ。
ぼくは、にわとりをおいかけて、ひとは、ぼくをおいかける。にわとりは、どれもこれも、にたりよったりで、ひとは、どれもこれも、にたりよったりだ。だから、とっても、あきあきしてる。だけど、もし、きみのなかまにしてくれたら、ぼくのくらしのなかに、ぱっとおひさまがさしこんでくる。きみのあしおとは、だれのものとも、ちがってきこえる。あしおとがきこえれば、いそいでかくれがにもぐらないといけない。でも、きみのあしおとは、かくれがからでておいでって、ここちよいおんがくみたいに、よびかけてくれるんだ。
 ほら、ごらんよ。あそこにむぎばたけがひろがっているだろう?ぼくは、パンをたべないから、むぎにはようじはない。むぎばたけだって、ぼくには、なんのようじもない。でも、それじゃぁさびしい。きみのかみは、きんいろにかがやいているね。もし、きみのなかまにしてくれたら、なんてすてきなんだろう。きみのかみみたいな、きんいろのむぎをみて、きみのことをおもいだすよ。そして、むぎばたけのなかで、かぜのおとをきくのがたのしみになってくる・・・」


キツネはながいこと、おうじさまをみつめてからいった。
「おねがいだから、きみのなかまにして!」
「そうしたいんだけど、あんまり、じかんがないんだ。ともだちをさがさなければいけないし、まだまだ、しりたいことだってたくさんあるし」とおうじさまはこたえた。
キツネはいった。「なかまになってから、はじめてわかることだってあるよ。わかろうとすることに、ふつうのひとはじかんをかけない。おみせにいって、できあがったものをかうだけだ。でも、どこをさがしても、ともだちをかえるおみせはないよ。だから、ひとにはともだちがいない。もし、きみがともだちがほしいのなら、ぼくを、きみのなかまにしてよ・・・」


「きみを、ぼくのなかまにするって、どうすればいいの?」おうじさまはきいた。
「とってもしんぼうづよくするんだ」キツネはこたえた。
「はじめに、ぼくとすこしはなれてすわるんだ。はらっぱのなかでね。ぼくには、きみがチラッとみえる。でも、なにもはなしかけないんだ。ことばは、きもちをじゃまするから。それから、まいにち、だんだんちかくにすわるんだ・・・」

つぎのひ、おうじさまはそのばしょにもどってみた。
キツネはいった。
「おなじじかんにきてほしい。たとえば、ごご4じとする。すると3じになったら、うれしくてたまらなくなってくる。じかんがちかづけば、もっとうれしくなってくる。そして、4じになったら、とびあがりそうで、ふあんにさえなってくる。どれだけうれしいかが、わかってもらえたら!でも、きみがいつくるの、かわからなかったら、いつあえるのかもわからなくて、こころのじゅんびができなくなる。だから、きまりはだいじだよ・・・」
「きまりってなに?」おうじさまはいった。
「それがどれだけだいじかってことに、だれもきづいていないんだ」とキツネはいった。「それは、いちにちをとくべつなものにして、あるひとときを、とくべつなものにしてくれる。それが、きまりっていうものさ。たとえば、まいしゅうもくようびに、りょうしは、むらのむすめとダンスにいく。だから、そのひは、ぼくにとって、とってもすてきなひなんだよ!ブドウばたけを、すきなだけあるきまわれる。でも、りょうしがいつダンスにいくのかわからなかったら、まいにちがおんなじで、たのしいきもちなんてなくなってしまう」


それから、おうじさまは、キツネとなかよくなってともだちになった。そして、さよならをいわなくてはならないときがやってきた。


「あぁ!」キツネがいった。「ぼくはなきたいよ」
「でも、それはきみのせいだよ」おうじさまはいった。
「なかまにしたいだなんて、これぽっちもおもってなかったんだもの。たのんだのは、きみのほうだよ」
「うん、わかってる」キツネはいった。
「でも、いま、きみはなきそうになってるじゃないか!」おうじさまはいった。
「うん、わかってる」キツネはいった。
「それじゃ、ちっともいいことをしたってことに、ならないじゃないか!」
「きみは、いいことをしたんだよ」キツネはいった。


「むぎばたけのいろをみればわかる」キツネはまたいった。
「バラのにわをみにいってごらん。きみのバラが、せかいでいちばんとくべつだってことが、わかるから。それからもどってきて、さよならをいってくれ。ひみつをおしえてあげるから」


おうじさまは、バラをみに、またでかけた。
「きみたちは、ぼくのバラとはぜんぜんちがう。ただのバラだね。だれもきみたちを、なかまにしてないし、きみたちもだれのなかまにもなってないんだもの。ちょうど、ぼくがはじめてキツネにであったときと、おんなじだ。キツネはそのとき、ほかのなんじゅうまんのキツネとおんなじだった。でも、なかまになったら、せかいでいちばんとくべつなそんざいになった」
それをきいて、バラのはなたちはとてもはずかしがった。


「きみたちは、きれいだけど、なかみはからっぽだ。だれも、きみたちのために、しにたいなんてひともいない。ちょっととおりかかっただけのひとなら、まちがいなく、ぼくのバラは、きみたちとおんなじだって、いうだろう。
 でも、あのバラは、ぼくのものなんだ。あのはなが、なんびゃくのほかのバラよりも、だいじなんだ。ぼくがみずをやったバラは、あのはなだけなんだ。あのはなのために、ガラスのうつわでおおってあげた。あのはなのために、かぜよけでまもってあげた。あのはなのために、けむしをころしてあげた。ちょうちょにするために、ちょっとだけのこしておいたけど。あのはなのために、もんくやじまんばなしも、きいてあげた。ときには、しらんかおされてもがまんした。だって、あのはなは、ぼくのバラだから」


それから、おうじさまは、キツネのところにもどってきていった。
「さようなら」
「さようなら」キツネはいった。


「これが、ぼくのひみつだよ。とってもかんたんだけど。こころでみなきゃ、ほんとうのところはみえない。いちばんたいせつなことは、めにみえない」
「いちばんたいせつなことは、めにみえない」おうじさまは、おぼえられるようにくりかえした。
「きみのバラといっしょにすごしたじかんが、きみのバラを、とくべつにしてくれる」
「ぼくのバラといっしょにすごしたじかん・・・」おうじさまは、わすれないようにくりかえした。
「こんなたいせつなことを、みんなすっかり、わすれているんだ」キツネはいった。「でも、きみはわすれちゃいけないよ。きみがなかまにしたものは、いつまでもだいじにしないといけない。きみはあのバラを、まもらなきゃいけない」
「ぼくはあのバラを、まもらなきゃいけない」おうじさまは、しっかりとおぼえられるようにくりかえした。