夕焼け色の記憶

翻訳した作品を中心に、オーストラリアから見て思ったことなどをつづっていきたいと思います。シドニー在住

少女・パレアナ(ポリアンナ)にみる他人を変える力と人間関係改善への知恵

少女パレアナ(ポリアンナ)はフィクションであり、時代も現代とは大きく違う。しかし、人間関係が希薄になっている現代こそ、学べることもあると思う。

ところで、他人を変えることはできるだろうか。できるという人もいるかもしれないが、多くの人は「できない」と考えているのではないだろうか。もちろん、他人を変えようとすることはそもそも良くないという意見もありうる。

パレアナ(ポリアンナ)は孤児となり、人の心を思いやることのできないおば、いわゆるアビューザー・タイプの人間にひきとられてしまった。ただの義務感からパレアナをひきとったおばは、幼い姪っ子に厳格に接していたはずなのに、最後には心を開き、姪を愛情を持って受け入れる。なぜ、こんなことが可能になったのであろうか。

一つ目に、パレアナ(ポリアンナ)の自己の生命を尊重するという自尊心の高さである。これは、本では断片的にしかふれていないが、裕福な家庭出身でありながら、一切を捨てて貧しい牧師の妻になった母親と、貧しい中でも、心の大切さを教えた父親にうるところが大きい。
パレアナは無視されても、ペンデルトン氏に何度も話しかけている。「婦人会に育てられました」といって苦笑されても、むしろ誇りにさえしている。彼女の瞳の輝きは、まさに彼女の心の輝きであり、自己が確立した人にのみある自信である。自己尊重の心がなければ、悪しき現状肯定につながり、「よかったさがし」も、傲慢な他の人間に利用されるだけのおひとよしになりかねない。

二つ目に、自己の尊重と一体の関係にあるが、他者へのゆるぎない信頼である。大陸を横断して初めて会いにきたというのに、出迎えもしないおばに最高の愛情表現で遇する。(http://d.hatena.ne.jp/Soraike123/20121218/1355804502)

裕福な家で、粗末な屋根裏部屋を与えられても、おばに対する信頼はゆるがなかった。また、ペンデルトン氏の犬がひじょうに主人になついているのをみて、なぜ犬や猫や人間より、人間のほんとうの心を知ることができるのかとつぶやく。パレアナの他者への信頼は、貧しくとも卑屈になることなく、両親と婦人会の人々への感謝に基づいている。そして、人へのたゆまぬ信頼が、相手から最高の心をひきだしたといえる。

三点目に、相手の心に飛び込む勇気である。寝たきりになっているスノウ夫人に、「ほかの人がみんな寝たきりではないから、喜べる」と病人を傷つけるようなことをいったパレアナ(ポリアンナ)であるが、そのあとで、貧しく母親もいないなか、婦人会の人にお世話になりながら、毎日の生活に喜びと幸せを見つけようとしていた体験を話し、心を閉ざしていたスノウ夫人の涙をさそう。スノウ夫人にとって、パレアナの勇気とうつくしい心が、自己の心を映し出す鏡となったのだ。それから、スノウ夫人もパレアナの喜びを探すゲームに挑戦しはじめる。そういえば、スノウ夫人に自分の顔をみるように鏡をわたしたのも、「自己をみつめる」という象徴的なできごとではなかったか。(http://d.hatena.ne.jp/Soraike123/20121222/1356173076)

四点目に、相手に心をひらく、正直さである。この胸襟を開いた会話が、相手の心を開くことに通じる。自分の考えが他者と違うのは当然である。そのとき、壁を乗り越えるすべは、胸襟を開いた会話しかない。

最後に、スノウ夫人は、目の前にないものばかりほしがっていて、知らず知らずのうちに、自分が何がほしいのかすっかりわからなくなっていた。これは、わたしたちが陥りやすい盲点である。自己が確立した人間でないと、真の人間関係は築けない。自分をみつめること、そして他人を理解することは、実は「人間を理解する」という点で同じルートをもっている。

パレアナ(ポリアンナ)が次々に、人々の心を開いて見せたのは、彼女の人格によることはもちろんであるが、彼女の人の幸せを願う熱意に基づいていることもみのがせない。

そういう点で、少女パレアナ(ポリアンナ)は非常に学ぶことの多い本だと思う。