夕焼け色の記憶

翻訳した作品を中心に、オーストラリアから見て思ったことなどをつづっていきたいと思います。シドニー在住

星の王子さま ブログで読める新訳 IV-2


たしかなわけがあって、ちいさなおうじさまがすんでいたほしは、B−612だとおもう。このほしは、ぼうえんきょうでしかみることができない。1909ねんに、トルコのうちゅうはかせがはっけんしたんだ。

うちゅうはかせは、せかいうちゅうかいぎで、このはっけんをだいだいてきにはっぴょうした。でも、きていたのがトルコふくだったせいで、だれもしんじてはくれなかった。

おとなはまったくこうなのだ。

でも、B−612というほしはうんがよかった。トルコのせいじかが「せいようのようふくをきないものはしけい」というきまりをつくった。そして1920ねんに、さっきのうちゅうはかせが、りっぱなようふくをきて、もういちどはっぴょうをやりなおした。するとみんなが、そのはかせのはっぴょうはすばらしいといったんだ。


B−612というほしについてはなすとき、おとなにはすうじのことだけいえばいい。おとなはすうじがすきだから。あたらしいともだちができたとき、おとなは、いちばんたいせつなことをきこうとはしない。「おともだちのこえは、どんなこえ?」とか「どんなあそびがすき?」とか「ちょうちょをあつめているの?」なんてぜったいにきかない。それよりも「おともだちのとしはいくつ?」「きょうだいはなんにんいるの?」「たいじゅうはどのくらい?」「おとうさんはいくらぐらいかせいでいるの?」なんてことをきくんだ。こんなすうじをきいてはじめて、わかったつもりになるんだ。


「きれいないえをみたよ。バラいろのレンガづくりで、まどにはゼラニウムがかざってあって、やねにはハトがとまっていて・・・」といっても、おとなにはどんないえなのかさっぱりわからない。「10まんフランするいえをみたよ」といわないと。そうしたら、「あら、すてきね!」とかんしんしてくれるんだ。


だから、「ちいさなおうじさまがいたっていえるのは、とてもかわいくて、ヒツジをほしがったからです。ヒツジをほしがっているひとがいたら、おうじさまがいたっていうしょうこです」といっても、おとなはかたをすくめて、こどもあつかいするだけだろう。でも「おうじさまはちいさなほしのB−612からきました」といえば、わかったつもりになって、もうそれいじょうはきかないとおもう。


おとなはいつでもそうだ。せめちゃいけない。こどもはいつも、おとなにはひろいこころでわかってあげなけくちゃいけないんだ。